故郷とともに

 当神社の創祀については不明であるものの相当古くからの信仰があり、神辺城主杉原氏や毛利輝元、福島正則等の信仰も厚く、神田の寄進などが記録に残り、「惣堂八幡」「延広八幡」と呼ばれた東御宮は、承保年中(1074~)宇佐八幡宮からの勧請、「若宮八幡」「野上八幡」と呼ばれた西御宮は、永享年中(1429~)鶴岡八幡宮からの勧請とされ、古く「穴の海」と呼ばれていた波静かな内海の近く現福山城址に、二つのお宮が別々に奉祀されていたと伝わります。  大阪夏の陣の後、元和5年(1619)水野勝成公が備後に転封され、西国鎮衛の新たな城を築き、福山と名付けて領内を整え、天和3年(1683)4代藩主勝種公により、備後福山総鎮守の社として松廼尾山に藩を挙げて建立されました。  以来、水野氏改易後も歴代藩主の崇敬厚く、福山の城中城下はもとより近郷近在より多くの崇敬を集めお祀りされています。  明治維新後、神社制度の改変があり、明治5年(1872)現東御宮を「延広八幡神社」、現西御宮を「野上八幡神社」と改称し郷社に列格、昭和3年(1928)には、県社に昇格されました。終戦後には新たに宗教法人法が制定され、神社本庁所属の宗教法人「延広八幡神社」・宗教法人「野上八幡神社」となり、さらに昭和44年(1969)両社の法人格を合併、社名も宗教法人「福山八幡宮」とし、神社本庁の別表神社に加列しました。  昭和59年(1984)御鎮座300年大祭を記念して、東御宮のお屋根葺き替えや中央拝殿の新築、平成21年(2009)325年式年大祭には、西御宮のお屋根葺き替えや彩色復元、聰敏神社ほか境内社の改修、駐車場の新設など境内整備が行われました。

御祭神

 

應神天皇(おうじんてんのう)

御名

譽 田 別 尊(ほんだわけのみこと)

人皇第15代

比賣大神(ひめおおかみ)

御名 

多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)

市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)

多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)

宗像三女神

神功皇后(じんぐうこうごう)

御名

息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)

應神天皇御母君

 

御神徳

 東西の両御宮にそれぞれ同じ三柱の御祭神(八幡大神)をお祀りすることから、一般に「両社八幡」と申し上げ、また、厚い信仰と親しみを込めて「東の御宮」・「西の御宮」とも呼ばれています。

   御祭神の應神天皇・神功皇后は、国の基礎を固めるため、大陸の進んだ技術(養蚕、紡績、織物、裁縫、鍛冶、造船など)や優れた大陸文化を輸入され、日本文化の興隆を図られた御神徳があり、国家鎮護の神、学問や農業、商工業の守護神として崇敬され、また、神功皇后と應神天皇は母と子のご関係にあたり、無事ご出産なされた事から、安産・子育ての守り神として信仰されています。

   比賣大神は、古来大陸交通の要衝にあった玄海灘に鎮まる神々で、宗像三女神とも申し上げ、国家防衛・航海安全・交通安全の守護神として崇められています。

   備後福山総鎮守の社として古くより信仰され、安産祈願に始まり、初宮(百日参り)、七五三、厄年、年祝いなどの人生儀礼や初詣、夏越などの年中行事、家内安全や交通安全、商売繁盛など折々の祈願、瀬戸の島々より海上安全・大漁満足を願う人々など、生活を支えお守り下さる大神さまとして多くの方々から厚い崇敬を集めています

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